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盛岡地方裁判所一関支部 昭和33年(わ)15号 判決 1959年4月22日

被告人 佐藤幸一

大一五・一・一八生 農業

主文

被告人を死刑に処する。

押収してある濃紺女物セーター一枚(証第七三号)は、これを被害者高橋サダの相続人に、同薄茶色洋服生地(長さ二・七メートルのもの)(証第七四号)は、これを被害者佐々木金治の相続人に、同国防色ラシヤ平ズボン一着(証第七二号)および同縞木綿風呂敷(証第八二号)各一枚は、これを所有者不明の者にそれぞれ還付する。

訴訟費用中鑑定人富川浩二に対し昭和三十三年十二月十七日支給した分を除きその余を被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、亡父与蔵、母モトの長男として生れ、本籍地の佐倉河小学校高等科を卒業後肩書自宅において農業に従事し、昭和二十年に結婚した妻との間に長男(十歳)長女(七歳)の二児をもうけているものであるが、昭和二十一年十二月父与蔵の死亡により家督相続した頃には、田畑の大部分は小作地であつたところ、翌二十二年自作農創設により水田一町二反歩、畑一反六畝歩を所有するに至つたが、当時は真面目に働いていたものの、その後闇米のブローカーをして失敗し、多額の借財を作つたため土地を売り始め、ことに昭和二十七年長女出生の頃からは、ろくに働きもしないで町へ出て遊び歩き、酒を飲んでは夜半に帰宅するようになり、そのうち競馬に手を出したり、市会議員選挙に立候補してみたり、又花札賭博をするようになつて次第に借財を重ね、次々に所有の田畑を手離すようになつたので、一家は次第に生活に窮するようになつた。このため家族が親族会議を開いて財産の減少を阻止しようとしたが、被告人のきき入れるところとならず、妻の戒めも何等の効果がなく、手許に残つたわずかばかりの田畑のほとんど大部分や宅地、居宅までも市税滞納のため差押えになつたり、約二十万円に及ぶ借金の抵当物になる始末であつた。被告人は、一時瓦職工を働いたこともあつたが、昭和三十二年八月手に負傷をしてやめてからは、一家の窮乏をも顧みず益々怠惰になり、水沢市内の二、三の賭場を廻り歩いては賭博にふけつていたが、あまり勝ち目がなく、このため同年十二月末頃前記負傷により支給を受けた労災保険の障害補償費四万数千円も、その大半を賭博のため使い果したばかりでなく、右の費用で買つた腕時計や人の反物までも担保にして金を借りたり、挙句の果て昭和三十三年一月二十五日には、義弟から使途を偽つて二万円の賭博資金を借りたが、これも間もなく使い果たすなど、ほとんど自棄的に等しい乱行を続けて日を送つていた。

一方被害者佐々木金治(当時六十三歳)は、早くから妻子と離れ、被害者高橋サダ(当時四十二歳)をめかけにして水沢市内で同棲生活をなし、昭和三十年五月頃からは、同市田小路十三番地駒場正方宅地内の作業場用建物を借りて住んでおり、金治は馬喰をしたり高利の金貸しをし、サダは、花札賭場をして生活していたが、被告人は、昭和二十八、九年頃から賭博関係でサダと知合いになり、サダを通じて金治とも知合いになつたところ、それ以来しばしば、金治方を訪れてはサダと賭博をしたり、金治から金を借りたりしたが、金治は、金銭には堅く、概して取立も厳しく、被告人が昭和三十一年六月頃馬券を買うため月一割で借りた二万円の利子が重み、昭和三十二年三月には、同年六月三十日を弁済期とする七万円の借用証書に書き換え、畑二筆に抵当権を設定したが、更に猶予してもらつて、同年十一月中旬頃までに三万円を支払い、その際年末までに二万円を支払えば、残金はまけてくれる約束だつたので、同年十二月二十九日前記労災保険の一部で二万円を支払い、その際担保を解いてくれと頼んだが、応じてくれないばかりでなく残二万円の催促をされたので、やむなく昭和三十三年十二月まで猶予してもらつたものの、あまりの口惜しさに泣いたほどであつたが、それより先にも金治方へ行つた際金治が他の者に対し期限の猶予を承知せず、期日までに払わぬなら家を処分するなどと言つているのを聞き、殺してもかまわぬ鬼のような人間だと憎んでいた矢先だつたので、被告人は、腹立ちまぎれにこの高利貸しの野郎殺してやろうかとさえ考えたりしたが、それにもかかわらず昭和三十三年一月中旬頃には、賭博仲間に借金の担保に入れた腕時計を金治に肩代りしてもらつたり、あるいは賭博資金に窮して被告人所有の自転車や人の反物を担保にしてまで金治から金を借りたりして同人宅に足を運んでいた。

このようにしているうち、被告人は、同年一月二十九日、妻には用向きを偽つて朝から遊びに出かけ、かねて行きつけの同市大町の生駒こと岡野軍司方へ寄つた後前記金治方へ行き、午前十時頃から午後三時半頃までサダと二人でトツパと称する花札賭博をし、結局被告人が一、五六〇円の勝ちになつて終つたが、サダからそのうちの三六〇円をまだ受取つていなかつたのでこれを要求したところ、サダは、自分も何度もくれてやつているからこればかりの金はくれろと言い出して渡そうとしなかつたので、不快に思いながらも金治方を出た。

被告人は、その足で前記岡野方へ行き、同人や仲間の氏家和夫その他の者とばかめくりをして負けてしまつたが、午後六時頃氏家を除く他の者達が帰つた後、岡野と氏家がトツパを始めたところ、これに加わりたくなつてしきりに同人等に対して金を貸せと頼み込み、結局氏家の使い走りなどをして同人から二千円を借りてこれに加わつたが、これも岡野に負けてしまつた。そして午後十時十分頃から岡野に酒を御馳走になつているうち、賭博資金に窮するの余り、かねて憎んでいた金治が金を持つているところから、金治、サダの両名を殺害して金品を奪取するとともに合わせて自己の金治に対する借金の返済も免れようと考え、帰り際に岡野に対し刃物を貸してくれと頼んだり、氏家に対し「もうけ仕事があるから手伝つてくれ。」とか「眠らしてしまえば大丈夫だ。」などと言つて暗に殺人強盗への加担を頼んだが、両名から拒絶され、やむなく午後十一時近い頃氏家とともに岡野方を出たが、なおも氏家を追いかけるようにして、思いつめたように「さつきの話だが絶対大丈夫なところがあるから手を貸してくれ、勝手を知つているところで、小金を持つた年寄の二人いる家がある、眠らしてしまえば絶対大丈夫だ。」などと執ように加担を迫つたが、氏家からたしなめられ、気分のおさまらぬまま、同市東町のバー、ユーモアに連れて行かれ、ウイスキーを飲ましてもらつたところ、氏家が席を外して仲々戻らず先に帰れとのことだつたので、午後十一時二十分頃独りで同店を出たが、サダから昼間の貸分をもらつて帰ろうと考え、午後十一時三十分過ぎ頃前記金治方へ行つた。

被告人は、同人方入口で声をかけたが、金治、サダの両名は眠つていたので返事のないまま、表戸を開けて入つたところ、眼をさましたサダから、用向きを問われたので、同人等の寝ていた奥六畳間で前記昼間の三六〇円のことを言い出すや、サダから「あればかりのはした金、おれも何回も貸したことがある。」などとことわられ、口論となつたが、傍らに寝ていた金治から「そればかりの金、利息においたつていいだろう。」などとののしられ、「やかましいから帰れ。」と再三言われたため、金治に対するこれまでの憎愛憤激の念が一途に募りかねての企てを独りで実行しようと決意し、「何したつて、殺されんなよ。」と言い捨てたまま同人方勝手に引返し、目についた薪置場から薪一本を取出して六畳間に行き、その南西隅に一緒に寝ていた両名に対し、「お前達借りた金を返す気持を知らないのか。」と言いながらやにわにまず自分に近い方に寝ていたサダの左側頭部を右薪をもつて二回強打し、次いで、これに気付いて起上ろうとした金治に対し、「借りた金はこうして返すんだ。」と言うやいなやその頭部を強打し、なおも「なにもかもあるものか、人の皮を被つた獣だ。」とののしりながら前記薪をもつて滅多打ちにし、よつてサダを左頭頂骨下部並びに側頭骨複雑骨折、頭蓋底骨折による脳挫創のため、金治を鼻骨、前頭骨、右眼窩骨等粉砕、左頭頂骨骨折、頭蓋底骨折等による脳挫創のため、いずれもその頃それぞれ死亡するに至らせて殺害を遂げたうえ、同室内のたんす等から金治所有の薄茶色洋服生地(幅一五三センチ、長さ二・七メートルのもの)(押収してある証第七四号)、サダ所有の濃紺女物セーター一枚(同証第七三号)、所有者不明の国防色ラシヤ平ズボン一着(同証第七二号)および同ふすま袋製風呂敷一枚、(同証第八二号)在中の縞木綿風呂敷包(右風呂敷は押収してある証第八一号)、サダ所有のビニール袋入り現金八〇〇〇円および金治の保管に係る村上圭吉名義の名刺一枚、同じく被告人所有の自転車一台(押収してある証第七五号)を強取し、かつ自己の金治に対する前記二万円の債務の支払いを事実上免れて財産上不法の利益を得たものである。

(証拠)

一、証拠の標目<省略>

二、弁護人の主張に対する判断並びに証拠の補足説明

(一)  被告人の公判廷外における自白の任意性について、

被告人は、当公判廷において、自己の犯行を終始否認しているが、裁判所の取調べた被告人の司法警察員並びに検察官に対する各供述調書、被告人の供述書によると捜査の途中から自白していることが認められる。弁護人は、これについて、被告人の公判廷外における自白は、捜査官の誘導ないし強制によるものであるから証拠とすることができない旨主張するので以下判断することにする。

1 まず、被告人が司法警察員に対し本件犯行を自供するに至つた経過を検討すると、裁判所の証人煤孫卓蔵(昭和三十三年六月二十九日尋問のもの、第七分冊二二〇八丁以下)、同小岩真佐(同二二三七丁以下)、同菅野常次(同二二四七丁以下)に対する各尋問調書に被告人の司法警察員煤孫卓蔵に対する同年二月十二日付(二通、うち一通第十分冊二九四六丁以下、うち一通同二九五二丁以下)、同月十五日付(同二九六四丁以下)司法警察員菅野常次に対する同月十六日付(同二九九七丁以下)司法警察員煤孫卓蔵に対する同月十七日、十八日、十九日、二十一日、二十二日付(同三〇一五―三〇八七丁)各供述調書、同人作成の同月十二日付捜索差押調書(第三分冊六〇七丁以下)を総合すれば、被告人は、同年二月十二日恐喝未遂被疑事件により逮捕されてから同月十五日までの煤孫警部の取調に当つては、本件犯行を否認していたが、(この間既に同月十二日には、強盗殺人被疑事件について、菅野警部補によつて被告人宅および附属建物の捜索が行われ、被告人の寝室から血痕附着の座布団、便所裏側から本件の賍物である縞木綿およびふすま袋製の各風呂敷、国防色ラシヤ平ズボン、濃紺女物セーター、薄茶色洋服生地等が差押押収された)同月十六日煤孫警部と交代して取調に当つた小岩警察官の取調の際同人から言い逃れをしてもかくしおおせるものではない旨懇々と説得されて泣き出し、お詫びをしたいから係長(煤孫警部)と探偵長(菅野警部補)を呼んでもらいたいとのことで、煤孫警部および当時病床にあつた菅野警部補を態々呼寄せた結果初めて菅野警部補に対し自供するに至つたものであり、しかも先に同月四、五日頃菅野警部補が生駒こと岡野軍司方で同人かあるいは妻しんの供述調書を作成し終つた時被告人が同人方を訪ねて来て菅野警部補と顔を合わせ、その際被告人は、自己の犯行を気付かれたのではないかと考え、菅野警部補が立去つた後同人を追いかけて自供しようとしたが、同人の姿を見失つたのでそのままにしたこと、そのうち留置され良心のか責に堪えかねて菅野警部補に自供しようという気持になつて同人を呼ぶに至つたこと、同人が病気入院のため翌十七日から煤孫警部がこれに代つて取調に当り、同二十二日までの各自供調書を作成したものであることがそれぞれ認められる。(もつともその間同月二十一日午前には殺害の点を否認し窃盗を犯したに過ぎぬと述べたが、同日午後にはこれを取消した。)そしてその取調、自供の状況については、同月十六日の小岩警察官に対するものについては、押収してある証第一二三号の一、同月十六日の菅野警部補に対するものについては、同号の二および同号の三のうちの青面、同月十七日の煤孫警部に対するものについては、同号の三のうちの赤面および同号の四の各録音テープに明らかにされているところであつて、これらと裁判所の証人煤孫卓蔵に対する尋問調書(同年六月二十九日尋問のもの、第七分冊二二〇八丁以下)、証人小野寺俐(第十分冊二八九〇丁以下)、同葛巻光男(同二八七八丁以下)の当公廷における各供述とに徴すると、

誘導とか強制とかによるものではなく被告人の任意による自供であることが認められるのである。のみならず、被告人の検察官に対する第二回供述調書中の警察における取調状況の記載(同三二〇四丁表)被告人の同年二月十七日付供述書(被告人の司法警察員中里良太郎に対する同月二十四日付供述調書添付のもの、同三〇九九丁)によつてもこのことは明らかなところである。

次に被告人の検察官に対する弁解録取書および検察官に対する各供述調書について検討すると、葛巻光男の検察官に対する供述調書(第三分冊六七九丁表)によれば、被告人は、江刺警察署の留置場において、隣りの房に入つていた同人に対し、警察で自供しても検察庁でくつがえすことができるかどうかを尋ねたのに対し、同人はできると教えたということが認められるから、検察官に対しては否認もできたはずであるのに依然自白しているし、なお証人後藤一善の当公廷における供述(第九分冊二八五二丁以下)によれば、特に同月二十七日には、被告人は犯行内容について口をつぐんだところ、後藤検事から人間のあるべき姿、良心のか責等についてさとされ、しかも警察でどのようなことを話したにしろ、身に覚えのないことを供述すべきではないとまで言い聞かされたのに、悲壮な決意をした様な表情になつて泣き出し、供述書を提出するからと言つて用紙を要求したこと、翌二十八日には自供して同日付供述調書が作成されたこと、しかも同検事からもらい受けた用紙には遺書を書いたとのことで同日更に要求して右供述調書添付の供述書(第十分冊三一八七丁以下)を提出するに至つたことが認められるし右供述調書およびその後の各供述調書も誘導や強制によるものではなく、被告人の全く任意な供述に基いて作成されたものであることが認められるのである。

2 次に被告人の否認の状況について検討すると、前掲被告人の司法警察員煤孫卓蔵に対する同月十三日付供述調書中第八、九項(第十分冊二九七六丁以下)には、被告人が、事件当日夜バー、ユーモアを出てからバー、オデツサ西側亜炭置場に行き、隠しておいた皮ジヤンバーを取り出して帰宅したが、布団に横になつて間もなく十二時の時計の鳴つたのを覚えている旨の記載があるが、被告人の妻である佐藤マツ子の検察官に対する供述調書第四項(第八分冊二四六二丁以下)によれば、被告人の帰宅時間は、翌三十日午前一時か二時頃であつて、二、三日後被告人から人に帰宅時間を聞かれたら十二時と言えと言われていたことが認められるので、被告人の右供述記載部分は、信用するに足らないし、被告人の司法警察員中里良太郎に対する同年三月十三日付供述調書(第十分冊三一一三丁以下)には、「事件当日午後十一時二十分頃バー、ユーモアを出て、金治方で賭博をするため同人方出入口付近まで行き小川に向つて小便をしていたところ、後方から急に頭を何かで殴られ倒されてしまつた。付近を見ると三人の男が立つておりそのうち一人は氏家和夫のように見えた。そのうちに気が遠くなり、気がつくと金治宅の中に寝ていた。それから寝ているサダの側に行つてゆすぶつたが、返事がないので死んでいるか生きているかを確かめるため水を掛けた」旨の記載があり、又第一回公判廷では、「事件当日の午後十一時三十分から同三十五分頃までの間に昼賭博で勝つた三百六十円の貸しをサダに請求するため行つたことは事実だが、金治、サダの二人が死んでいたのでそのまま帰宅した。金品も取つていない。」趣旨の供述をなしており、更に又裁判所の昭和三十三年四月十九日の検証の際には、指示説明として「事件当日日中金治方でサダと賭博して帰る際晩に寄る旨言つておいた。夜金治方へ行き声を掛けたが返事がないので戸を開けて入つた。電気のひもを引いたがつかなかつた。寝ていたサダの胸の付近をゆすぶつたが返事がなかつたので死んでいると思い、風呂敷包みを持つて外に出た。帰宅後マフラーのないのに気付き金治方へ引返し靴ばきのまま上りミシンの上からマフラーを探し出して立去つた。」旨(第十分冊三三三五丁以下)述べているが、これら相互の間には脈絡を欠くものがあるし、氏家和夫の検察官に対する同年二月二十七日付供述調書(第八分冊二三五八丁以下)、玉内克己の検察官に対する供述調書(第四分冊七六二丁以下)を総合すれば、氏家は、その頃は、まだバー、ユーモアにおり、午後十二時頃同所を出て岩谷堂の自宅に帰つたことが認められ、又佐々木栄左ヱ門の検察官に対する供述調書(第五分冊一三四一丁以下)によれば、事件当日の昼被告人が金治方を立去る際には、後で来るなどとは言つていないことが認められるので、到底信用し難いところである。

(二)  被害現場の指掌紋について、

弁護人は、被害現場には被告人の指掌紋は存在しないから、本件犯行は被告人によるものではなく、むしろ現場に指掌紋を残した者が犯人である旨主張する。

この点について、被告人の司法警察員煤孫卓蔵に対する同年二月二十一日付供述調書中第七項(第十分冊三〇五八丁)、同中里良太郎に対する同年三月十四日付供述調書中第二ないし三項(同三一二三丁以下)、検察官に対する第九回供述調書中第五項(同三二五四丁表、裏)および第一三項(同三二五七丁裏)によると、当初煤孫警部に対しては、被害者方で皮手袋をはめてタンス等を物色した趣旨を述べているが、後中里巡査部長に対しては、犯行時には、佐藤由松方で賭博をした時高橋今朝雄から買つた模様つきの茶色毛糸手袋をはめた旨述べ、又後藤検事に対しても、指紋の残らぬようオーバーのボケットから黄色毛手袋を取出してはめて六畳間西側タンスを物色したことその後同年二月七日劇場で右手袋を落したこと、および右手袋は高橋今朝雄から買求めたものである趣旨を述べているのであつて、本件犯行の際被告人が毛糸手袋をはめていたことは、裁判所の証人高橋今朝雄に対する尋問調書中(第五分冊一一八〇丁表)の茶色毛糸手袋を被告人に売つたことがある旨の記載並びに氏家和夫の検察官に対する第二回供述調書中(第八分冊二三七二丁裏、二三七三丁表)の、当夜被告人が岡野軍司方を出てから、氏家に対し、手袋をはめて指紋さえ残さなければ絶対大丈夫だと言つた旨の記載に徴し、十分認めうるところであつて、(右氏家の供述調書および佐藤マツ子の検察官に対する同年三月二日付供述調書中被告人が当日皮手袋をはめていた旨右認定に反する記載は信用し難い)被害現場から被告人の指掌紋が発見されなかつたとしても何等不思議はない。のみならず八戸啓助作成の現場指掌紋対照結果報告書第四分冊八一九丁以下によれば、茶筒における高橋慶助のものは別として(高橋慶助の司法警察員に対する同年二月十日付供述調書第六項(第二分冊四七二丁裏)の記載によれば、右指紋は、同年一月二十五日被害者方で茶を入れて飲んだ際のものであることが推認される。)、通常金品の在中する可能性のある女物入タンスから採取した指掌紋七個のうち四個は、被害者金治のもの、机からの五個も同人のもの、男物入タンスからの一個は、被害者サダのものであつて、鑑定人富川浩二作成の鑑定書(第九分冊二六七二丁以下)および同鑑定人の当公廷における供述(第十一分冊二三五四丁)によつても前掲の残りのものについてはほとんど対照不可能のものであることが認められるのである。

(三)  補強証拠としての各種情況証拠

1 犯行現場および被害者金治の損傷における異常現象

(1) 司法警察員煤孫卓蔵作成の同年二月十日付検証調書(第三分冊六〇七丁以下)、裁判所の証人小野寺潔(第五分冊一〇一一丁以下)、同煤孫卓蔵(二通、うち一通同一〇三二丁以下、うち一通第七分冊二二〇八丁以下)に対する各尋問調書を総合すれば、

イ 被害者方入口土間南側に接する板の間から六畳間入口に至る間一五〇センチの間に往き来したゴム長靴のものと思われる足跡痕が七個あるのに(右検証調書五二三丁表および添付写真第五、一〇葉六畳間の畳には右足跡痕がなかつたこと、しかも右足跡痕は、佐羽内東三郎作成の鑑定書(第四分冊七七〇丁以下)により事件当夜被告人のはいていたという、押収してあるゴム半長靴(証第七六号)のものと一致していること。

ロ 六畳間西南隔に置かれてあつたたんすの正面中央より左斜め下方についてあつた飛沫血痕のほゞ中央になすつたような跡があつたこと、(右検証調書五二五丁裏および添付写真第一六葉)

ハ 六畳間の三つ又ソケットの電燈中豆電球および四〇ワット電球が切れ、スイッチの紐を引いて点滅を実施しても点燈できなかつたこと、それにもかかわらず該ソケットより引いていたラジオには点燈したこと、(右検証調書五三三丁表および添付写真第一八葉)

ニ 被害者両名に被せてあつた掛布団の下から古ほうたい、毛糸一巻、縫糸を巻いたマッチ箱、ホック等が発見されたこと、(右検証調書五三四丁裏および添付写真第三一、三二葉)

ホ 被害者等のしていた枕およびその附近が水でもかけたように温気を帯びていたこと(右検証調書五三六丁以下)が認められ、又、

(2) 細井武光作成の鑑定書(第四分冊九五六丁以下、以下細井鑑定書と略称する。)によれば、被害者金治には、その顔面頭部の損傷以外に、

イ 下腹部、左そけい部左大腿部等に表皮剥脱が存すること、

ロ 肋骨多数が折損していること、殊にこれのみは、金治、サダの頭部等の損傷が薪様のものによつて生じたと考えられるのに反し、攻撃面が広く且つ平滑な鈍体によつて生じたものと推測されること

が認められる。

そして以上の奇異な現象は、本件の犯行者にして始めてよく説明しうるところであつて、被告人の司法警察員並びに検察官に対する各供述調書の記載により合理的に解明することができるのである。すなわち、

(1)の1のうち

イについては、前掲被告人の検察官に対する同年二月二十八日付供述調書には、被告人が、本件犯行後帰宅した際被害者宅六畳間ミシンの上にマフラーを置き忘れたことに気付いて被害者宅へ戻つた際、土足のまゝ勝手板の間に上つたところ、六畳間との境の障子の附近に落ちていたので拾つて帰宅した旨の記載があり、畳の上までは上る必要がなかつたものと認められる。

ロについては、前掲被告人の司法警察員煤孫卓蔵に対する同月十八日付供述調書には、殺害を遂げた後おそろしくなりコタツから被害者等の腰の下辺りまで掛つていた一番上の掛布団を右手で二人の頭部の方に投げて頭をかくすようにした旨の記載があり、その際前記タンスの表を右布団がかすつたものと推認されるのである。

ハについては、前掲被告人の司法警察員菅野常次、並びに同煤孫卓蔵に対する同月十七日付供述調書には、サダ、金治の両名を薪で殴りつけてから気がついた時には豆電球が消えていてスゥイッチの紐を引いても点燈しなかつた旨の記載があり、これと裁判所の同年四月十九日施行の検証調書(第十一分冊三三二三丁以下)、司法警察員煤孫卓蔵作成の同年二月十日付検証調書中の三ツ又ソケットの電燈の位置とを総合すれば、殴つた際の薪(本件兇器が薪であることについては後記4に説明する)が右電燈に当つたために消えたものと認められる。

ニについては、司法警察員煤孫卓蔵に対する同年二月十八日付供述調書には、被害者方六畳間北側タンスの鏡台の抽出を開けるため側へ寄つた際西側にあつた机の上の裁縫箱をひつくり返したので集めて元通りにした旨の記載があり、その際拾い残したものと認められる。

ホについては、ニに掲記の供述調書には、被告人が、殺害を遂げ財物を強取したものの急に恐ろしくなり、本当に死んだかどうかを確かめるため勝手にあつた馬穴の水を金治、サダをめがけて掛けた旨の記載があり、被害者等の枕許の湿気は、被告人の掛けた水によるものであることが認められる

又(2)のうちの

イについては、(1)のニに掲記の供述調書には、西側タンスを開けようとした際掛布団が邪魔になつて開かなかつたので掛布団の上から金治の体に上り、布団のすその方をずらしたところ金治の左腰左大腿部左脚が出たが、無性に金治が憎らしくなつて薪で数回腰の辺りを殴つた旨の記載があり、同所における損傷はその際生じたものと認められる。

ロについては、イに掲記の供述調書および被告人の検察官に対する同年三月六日付供述調書には、六畳間西側タンスを開けようとして掛布団の上から金治の体の上に膝をついたうえ、無理に開けようとしたため自然両膝に力が入つた旨の記載があり、その際生じた損傷と認められる。

2 被告人による本件犯行の時間的可能性について

弁護人は、細井鑑定書中、被害者両名の死体は、いずれも死後解剖時までに二日前後を経過したものと推定する旨の記載をもつて死体解剖時間(昭和三十三年一月三十一日午後五時五十九分開始)からすれば、被害者等の死亡は、同月二十九日午後六時前後であるべきであり、被告人の自供による犯行時である同日午後十一時四十分とはあまりにも時間的相違があると主張する。なるほど厳密にいうならば、一月二十九日午後六時前後ということにもなるであろうが、しかし菊地庄二の検察官に対する供述調書(第六分冊一四一四丁以下)によれば、被害者宅内には、当日午後十時頃まだ電燈がついていたことが認められるし、細井鑑定書によつても被害者等の尿中あるいは血液中のアルコール濃度からして死亡直前飲酒を行わなかつたことが認められ、又同鑑定書による被害者等の胃の内容物と司法警察員煤孫卓蔵作成の前掲検証調書により認められる六畳間長火鉢北側の鉄釜内の米飯(第三分冊五二八丁―裏五二九丁表)、六畳間北側障子付近の一斗かんの上のニュームなべ内の豆腐、ねぎ、豚肉のにもの(同五二九丁裏)とを合わせ考えれば、被害者等は、当日夕食時前掲のものを飲食したものと推認できるから、細井鑑定書の死亡推定時間は、弁護人主張のように厳密に解すべきではない。他方被告人の検察官に対する同年二月二十八日付および第九回各供述調書と氏家和夫の検察官に対する同月二十七日付および第二回各供述調書(第三分冊二三五八丁―二三七七丁)鈴木典夫の検察官に対する供述調書(同二三〇三丁以下)とを総合すれば、被告人が氏家和夫と共に岡野軍司方から出てバー、ユーモアに行つたのは、当日午後十一時過ぎ頃であり、被告人が独りで同店を出たのは午後十一時二十分頃であることが認められ(氏家および鈴木の前掲調書中右認定に反する部分は信用し難い)、裁判所の同年七月十一日施行の検証調書(第八分冊二六二二丁以下)によれば、被告人の検察官に対する同年二月二十八日付供述調書記載のとおり被告人が当夜バー、ユーモアから出てバー、オデッサの亜炭置場に立寄つて先にかくしておいた皮ジャンパーをとつてから被害者方へ行つたものとしてもその所要時間は、十二分程度又被告人の検察官に対する第九回供述調書記載のとおり、バー、ユーモアを出てから、右亜炭置場に立寄らないで別の経路を被害者方に行つたとしてもその所要時間は九分二十秒程度であることが認められるから、いずれにしても被害者方到着の時間は午後十一時三十分過ぎ頃となり被告人の自供による午後十一時四十分頃には犯行をなしうる可能性は十分にあるわけである。なお押収してあるオリエントスター女物腕時計(証第二十三号)(前掲司法警察員煤孫卓蔵作成の検証調書により被害者サダ死亡時左腕につけていたものと認められる)は、右検証時も、又現在も十一時五十分で停止していることが認められるが、鑑定人武田光司作成の鑑定書(第十分冊三二八〇丁以下)裁判所の証人吉田惣二に対する尋問調書(第七分冊一九九〇丁以下)および証人吉田猪惣治の当公廷における供述(第九分冊二七〇〇丁以下)によれば、本件犯行によつて停止したものであるかどうかは明らかではなく、従つて被告人の被害者両名殺害の時間が午後十一時五十分であると認めるわけにはいかない。

3 血痕附着の証拠物について、

押収してある茶色ジャンパー(証第九一号)、同カーデガン(証第九三号)、同茶色オーバー(証第九四号)(以上は被告人の第三回公判廷における供述、佐藤マツ子の検察官に対する同年三月二日付供述調書により被告人が、事件当夜被害者方へ着用して行つたものであることが認められる。)には受命裁判官の証人黒川広重に対する尋問調書(第七分冊二一三三丁以下)、黒川広重作成の鑑定書(第八分冊二五八七丁以下)によればいずれも人血痕が附着しており、特にオーバーおよびジャンパーのものの血液型は、いずれもA型であることが認められる。又押収してある皮ジャンパー(証第七九号、この物は、司法警察員作成の同年二月四日付領置調書第三分冊六四三丁によれば千葉徳之助の提出にかかるものであつて、しかも被告人の検察官に対する同年二月二十八日付および第九回各供述調書並びに裁判所の証人氏家和夫に対する尋問調書第六分冊一六七八丁以下を総合すれば、氏家の所有物であつて、事件当夜被告人が着用したものであることが認められる。)には、警察庁技官富田喜寿他二名作成の鑑定書(第四分冊八〇三丁以下)により、又押収してある座布団(証第一一号、この物は、司法警察員作成の同年二月十二日付捜索差押調書第三分冊六〇七丁以下および被告人の第五回公判廷における供述によれば、被告人の寝室から押収されたものであつて、しかも被告人が枕代りに使用していたものであることが認められる。)および同オリエントスター腕時計(証第七八号、この物は、被告人の第三回公判廷における供述および裁判所の証人岡野軍司に対する尋問調書第六分冊一五八二丁以下、司法巡査作成の同年二月一日付領置調書第三分冊六四〇丁によれば、被告人の所有物でしかも本件犯行の翌日である一月三十日に被告人が岡野から賭博資金を借りるため担保に供したものであつて、岡野から二月一日領置したものであることが認められる。)には、警察技師杉沢文雄作成の同年三月二十五日付鑑定書(第三分冊一五二二丁以下)によれば、いずれにも人血痕が附着しており、特に右座布団のものの血液型は、O型であることが認められる。他方細井鑑定書によれば、被害者金治の血液型は、AN型、同サダのそれはOMN型であることが認められると共に、押収してあるちり紙三十四枚(証第一〇〇号、この物は、前掲司法警察員煤孫卓蔵作成の検証調書中第三分冊五三〇丁表裏の記載、同人作成の領置調書中第二分冊四〇〇丁表の記載により被害者方六畳間北側茶タンスの上に存在していたものと認められる。)のうち一枚および押収してある掛布団一枚(証第九〇号)および同障子紙々片二枚(証第一八三号の三、四)(右掛布団および障子紙は、前掲司法警察員煤孫卓蔵作成の検証調書、同人作成の領置調書の各記載によれば、いずれも被害者方六畳間に、しかも掛布団は、被害者金治およびサダの死体の上にあつたものであり、障子紙々片は、金治の頭のすぐ南側押入に立ててあつたところの、押収してある証第一八三号の一、二の障子のそれぞれ一部分であることが認められる。)には、警察技師杉沢文雄作成の同年四月七日付鑑定書(第四分冊七八八丁以下)によれば、いずれにも人血痕が附着しており、しかも右ちり紙のものの血液型はO型、掛布団のものはO型およびA型、障子紙のものはA型であることが認められ、被害者方六畳間内におけるこれらのものの存在した位置と被害者両名の死体の存在した位置との場所的関係からすれば、右ちり紙に附着のものと、掛布団に附着のもののうちのO型のものとは、被害者サダの血痕であり、掛布団に附着のもののうちのA型および障子紙々片に附着のものは、被害者金治の血痕であると認めるのが相当である。そして前掲被告人の着用物ないし使用物における血痕のMN方式による型は不明であるから、これらのものが被害者等の血液型と同一であるとは必ずしも言いえないにしても少くとも同一である蓋然性の存することはこれを否定しえない。

被告人は、第三回公判廷において、前掲被告人の着用物あるいは使用物への人血痕附着の可能性について、証第九一号のジャンパーには、自分が瓦工場で手とか首とかを負傷した際、供出米の俵作りで手を擦つた際とか、あるいは昭和三十二年六月末頃及川一郎と取組合のけんかをした際とかについたかも知れないし、又長女三枝子は歯が悪く常に血を出していたからそれがついたかも知れず、更に自分の着る前弟の佐藤幸吉が二、三ヶ月位着ていたこともあるなど、又証第九三号のカーデガンには、前記及川一郎とのいざこざの際ついたかも知れぬし、証第九四号のオーバーにはなぜついてるのわからぬ旨弁解しているので判断すると、医師半沢元彦作成の同年三月七日付鑑定書(第四分冊七九七丁)によれば被告人の血液型はAB型であるから右ジャンパーのものとは明らかに血液型が異るし、裁判所の証人及川与七(第七分冊二一五四丁以下)、同及川一郎(同二二〇三丁以下)に対する各尋問調書を総合するとなるほど昭和三十二年六月頃被告人と及川一郎とが掴み合いをしようとはしたが、すぐ仲裁されて殴り合いにまでは至らず、従つて被告人はさておき及川一郎の血が附着する機会がなかつたことが認められる。又医師半沢元彦作成の同年五月十五日付鑑定書(第八分冊二三〇一丁)によれば、被告人の長女三枝子の血液型がA型であることが認められ、又裁判所の証人佐藤マツ子に対する尋問調書中第七分冊二〇八八丁には三枝子が始終歯から血を流していたとの記載があるけれども、前掲黒川広重作成の鑑定書によれば、右オーバーについては、血痕の附着状態からすれば、何か血液の附着した物体にその附着した血が乾燥しないうちに蝕れたため生じた血痕と推認されるし、又ジャンパーについては、その分布状態、大きさ等からすれば飛沫血痕の性状に一致することが認められるので、仮りに三枝子が歯から血を流したとしてもそれによるものとは認めることができないし、更に又裁判所の証人千葉幸吉(被告人の弟)に対する尋問調書(第七分冊一七九九丁以下)によつても同人が三年位前に右ジャンパーを被告人から借りて着たことはあるが、血のつくようなことはなかつたものと認められる。

又被告人は、第五回公判廷において、前掲証第一一五号の座布団について、長女三枝子の歯から出た血がついたものと思う旨述べているが、前認定のとおり両者は明らかに血液型が異なるのであつて、単なる弁解に過ぎない。

4 本件における兇器である薪について、

(1) 前掲司法警察員煤孫卓蔵作成の検証調書、高橋三五郎作成の同年一月三十一日付任意提出書(第二分冊三八九丁以下)、司法警察員煤孫卓蔵作成の同日付領置調書(同三九四丁以下)、裁判所の証人煤孫卓蔵に対する尋問調書(同年六月二十九日尋問のもの、第七分冊二二〇八丁以下)警察技師平野幸五郎作成の昭和三十年二月二十八日付(昭和三十三年の誤記と認める)鑑定書(第八分冊二五七四丁以下)、武藤益蔵作成の昭和三十三年二月十一日および二十五日付各鑑定書(第四分冊七三七丁以下)、司法警察員作成の証拠物件の個数についての報告書(同七四〇丁)、鑑定人武藤益蔵作成の昭和三十四年一月十四日付鑑定書中第十一分冊三三七四丁裏を総合すれば、被害者等の死体およびその付近からその大部分のものに血痕の附着した木片多数が発見され、押収してある証第八三号ないし八八号第八九号の一、二がそれであること、右木片はいずれも普通薪炭材として使用するところの材のやや硬いサワシバ(方言クチグロ)と称する樹皮であつて、中には太さほぼ一寸三分ないし二寸位の丸太についていたものと推定されるものもあることがそれぞれ認められ、このことと細井鑑定書とを合わせ考えれば、本件における兇器(成傷器)は、サワシバと称する樹種の、しかも太さ一寸三分ないし二寸程度の丸太を割つたものでその先端すなわち伐り口が六面体になつている薪様の木であることが推認される。

(2) ところで被告人の司法警察員並びに検察官に対する各供述調書(供述調書添付の被告人作成の供述書を含む)によれば、被告人は、被害者方勝手にあつた薪一本を取出しこれをもつて被害者両名の頭部あるいは顔面を強打したことを自供しており、しかもその薪は、犯行後被害者方前の小川に捨てたというのである。そして右薪は、捜査しても発見するに至らなかつたものの、そしてこのことはやむをえないとしても、前掲司法警察員煤孫卓蔵作成の検証調書の記載並びに同調書添付写真第三葉および第九葉によると、事件後二日目に実施した検証の際には、一方において、被害者等の死体の付近から血痕附着の樹皮を発見し、他方被害者方勝手内の、しかも出入口のガラス戸のうち南側のものの内側に炭箱の中に入つていた薪およびその南側に接した箱の上に置いてあつた薪、更に被害者方建物の北側軒下に積み重ねてあつた相当多量の薪束、なお又証人菅原正任の第七回公判廷における供述(第八分冊二二八五丁以下)によれば、その翌日である二月一日に勝手側に近い六畳間の裏板から市販のいわゆる規格薪六束(薪の長さ一尺五、六寸、太さ四、五寸のものを二つ割ないし四つ割にしたもの)をそれぞれ発見したことが認められるので、これらの薪は、被害者等の死体から前記樹皮を発見したことにかんがみて差押えるべきであつたのに、前掲裁判所の証人煤孫卓蔵に対する尋問調書その他の証拠書類によると、その措置をとらず、事件現場へ集つた被害者の親戚等の処分に任せて滅失散逸してしまつたことは、何としても捜査上の重大過失であるとの非難を免れえないであろう。そして、右処分後あわてて回収したと考えられる小割薪五束(押収してある証第一一八号ないし一二三号。これらは前記北側軒下にあつたものと認められる。裁判所の昭和三十三年四月十九日施行の検証調書中特に第十一分冊三三二三丁以下の記載並びに添付写真K参照)についてなした鑑定人武藤益蔵作成の昭和三十四年一月十四日付鑑定書(第十一分冊三三七三丁以下)によるも、右五束の小割薪の中には、サワシバの薪は一本も存在しないことが認められるけれども、裁判所の証人佐々木貞三郎に対する尋問調書(第五分冊一〇五一丁以下)によれば、被害者方北側軒下にあつた小割薪は、被害者金治が実家である同証人方付近の山から昭和三十二年八月頃伐つて作つたものであること、同証人がそれより二年位前その山から伐つた際にはサワシバ(俗称クチグロ)の木があつたが、事件後その山の伐根を調べても根元まで伐つたものもあつてサワシバの伐根を見つけかねたことが認められるので被害者方北側軒下にあつた小割薪、従つて又被害者方勝手にあつた小割薪中にサワシバの存在の可能性が全くなかつたわけでもない。ところで裁判所の証人佐々木貞三郎(前掲)、同高橋三五郎(第五分冊一〇九六丁以下)に対する各尋問調書によれば、被害者方勝手にあつた前掲二ヶ所の薪のうち箱の上のものは小割薪で、それに隣接する箱の中のものは長さ一尺六、七寸のものであつたことが認められ、他の証人尋問調書中この認定に反する部分は信用し難い。そして右箱の中のものは、その寸法等よりして市販の規格薪であつたものと推認されるが、前掲武藤益蔵作成の昭和三十三年二月十一日付鑑定書と農林技官村川政雄作成の答申書(第八分冊二三〇二丁)とを総合すれば、右市販の規格薪中にも又サワシバのものの存在する可能性があつたものと推認されるのである。被告人がどんな薪を本件犯行に使用したかについては、被告人の自白調書中、最初のもの、すなわち司法警察員菅野常次に対するものには、長さ二尺、太さ一寸五分との記載があるのに、その後のものには、すべて長さ一尺二、三寸、太さ一寸五分位(押収してある小割薪とほぼ同一寸法である。)との記載があるが、被告人が憤激してとつさの間に勝手の薪を取出したことからすれば、薪の長さについての記憶が必ずしも正確であつたとは限らないから、勝手にあつた前認定の二種類の薪のうちいずれのものを取出したかはにわかに断定し難いところである。しかしながら前掲裁判所の検証調書中第十一分冊三三三九丁裏の記載および添付見取図六(被害者方六畳間の電燈のソケットに二燭光の豆電球を点燈して勝手との境の障子のうち常時開閉していると推認される南側の一枚を開けて勝手場に対する直射光線の当る範囲を検したもの)と前掲司法警察員煤孫卓蔵作成の検証調書添付写真第九葉の薪の位置関係とを合わせ考えると、前記二種類のいずれの薪にしても、被告人の自供のように勝手場の薪置場から薪を取り出すことは決して不自然ではないと考えられるのである。

弁護人は、押収してある前掲小割薪をもつて人を殺害しえないと主張するもののようであるが、鑑定証人細井武光の第十九回公判廷における供述によると、右小割薪は本件の成傷器としては小さ過ぎ困難であるように考えられるが、しかし絶対に不可能であると断言できないとも述べており、一方及川ヨシエの検察官に対する第三回供述調書(第四分冊一四六六丁以下)によれば、当時勝手にあつた小割薪を燃やしたところ、周囲は乾いてるようにみえるがしんは乾いておらず泡が出たし、普通の薪と比べると中まで乾いていないためか少し重いように感じたというのであるから勝手にあつた右小割薪が必ずしも被害者等に対する成傷器たりえないものとは認め難いところである。

これを要するに、当裁判所は、被告人が当時被害者方勝手にあつた前記二種類の薪のうちのいずれかによつて被害者等を殺害したものと認定するものである。

5 事件後における被告人の言動等について

(1) 裁判所の証人小倉昭彦に対する尋問調書(第九分冊二七一六丁以下)によれば、当時水沢警察署の刑事係として捜査を担当していた同証人が、事件後二日目の一月三十一日午前中に被害者等の賭博仲間などの聞込捜査に従事し、佐藤由松方へ行つた際、たまたま被告人の話が出たので岡野軍司方へ行つたところ、被告人や他の者が二階十畳間のこたつに寝ていたが、同証人がかねて被告人と知合いであつたところから被告人を探し出し、声をかけて被告人を起したうえ、冗談半分にいきなり、「幸一、お前殺しをやつたな」と言つたところ、普段なら知合いの仲であるから、冗談ぢやないとでも言うべきはずなのにサッと顔色を変えて真青になり、しばらく経つてからはじめて「また小倉さん冗談ばかり言う」と言い出し、「困つた、どうしたらいいかな」などと話したことが認められること、

(2) 氏家和夫(同年二月二十七日付、第八分冊二三五八丁以下)、岡野軍司(同月二十六日付、同二三二二丁以下)、高橋今朝雄(第六分冊一四三六丁以下)の検察官に対する各供述調書を総合すると、当夜被告人は、岡野方で氏家から金を借りてまで賭博をし、しかもそれさえも負けてしまつたのに、(被告人の司法警察員および検察官に対する各供述調書中当夜なお相当の金を所持していたとの点は必ずしも信用し難い)翌一月三十日夜の賭博の際は、少くとも七、八千円を所持していたことが認められるし、今野徳夫(同二四五五丁以下)および前掲高橋今朝雄の検察官に対する各供述調書を総合すると事件前の一月二十五日猪股万方で賭博をした際被告人が戸来勝郎から借りた二千円の金を一月三十日の夕刻今野徳夫に託して戸来に返済したこと、その際今野の見たところでは被告人の財布には二万円位の金が入つていたように見えたこと、しかも今野に託す際被告人が子供を入院させるところだから今日は入らないで帰ると言つてさつさと帰つたこと、その際今野としては、子供を入院させるのならば金が要るはずなのに不思議に感じたこと、そして又右高橋今朝雄の検察官に対する供述調書によれば、その後二月二日頃の午後同人が岡野方へ行つた折、岡野が小用に立つて被告人と高橋の二人になつた際、被告人は顔色を悪くして同人に対し、「おれが一月三十日の晩七、八千円の金を持つていたとお前が語つたそうだな」と話したこと、前掲岡野の検察官に対する供述調書によると、被告人は、一月三十一日午前十一時頃岡野方で小倉刑事が立去つた際、岡野に対し、前夜被告人が同人から二千円を借りる際担保に供した腕時計について、「親父時計をおれから預つたと誰にも言わないでくれよ」と頼んだこと、二月二日岡野方で同人が被告人に対し「幸一お前がやつたのでないか」と聞くと被告人は下を見て黙つて考え込んでいたこと、二月六日菅野探偵長が同人方へ事情を聞きに行つていた時、来合わせた被告人が菅野探偵長から事件当日の行動を聞かれて、「二十九日には金がないから僅かでも遊べるサダのところへ行つてトッパをやつた」と答えておきながら、更に「二十九日夜は生駒方では金はあつたけれどもないふりをしたのだ」などとつじつまの合わない話をしていたこと、前掲氏家和夫の検察官調書によると事件当夜午後八時過ぎ頃同人が被告人からうるさく金を貸してくれと頼まれ、同人所有の皮ジャンパーで佐藤由松から五〇〇〇円借りて来いと言つて被告人を使い出したところ、被告人は、二十分位過ぎて帰り、氏家に二五〇〇円を渡した際、柳町から借りて来た旨および来月三日までに受け出してくれという趣旨の話をしておきながら、翌一月三十日夜には早くも被告人自身右ジャンパーを持つて来たことがそれぞれ認められること。

(3) 前掲2に記載のとおり、事件当夜被告人が午前一時か二時頃被告人の検察官に対する二月二十八日付供述調書によれば午前一時過ぎ頃帰宅したのに、その二、三日後妻に対し、「人から聞かれたら一月二十九日の晩は十二時におれが帰つたと言え」と話したことが認められること。

(4) 裁判所の証人佐藤イサ子、同佐藤頼夫(イサ子の夫)に対する各尋問調書(前者は第七分冊二〇〇六丁以下、後者は同二〇一五丁以下)に押収してある便箋一枚(証第八〇号)を総合すると、被告人は、事件当夜右証人等の家へ行つたこともなく、又物を頼んだこともないのに、事件の約一週間後、佐藤イサ子に対し証第八〇号の便箋を同人の夫頼夫へ渡すことを託したこと、右便箋には、頼夫おれの一生のお願いだ云々の記載がなされており、明らかにアリバイ工作をなしたものと考えられること。

以上、被告人の事件後における言動等の情況証拠は、被告人が本件犯行をなしたことを裏書きするものといわなければならない。

(四)  被害品等に対する弁護人の主張に対する判断

1 被害者サダ所有のビニール袋入り現金八〇〇〇円について、

前掲被告人の司法警察員に対する二月十八日付供述調書および検察官に対する二月二十八日付各供述調書によれば、被告人は、被害者方六畳間北側タンスから四つにたたんだ千円札の入つたビニール袋(後記のとおりナイロン袋とあるのはビニール袋の誤りと認める。)を取つて綿ジャンパーの右ボケットにしまい、帰宅の際自宅手前二、三十メートルの道路上でその袋の中から四つにたたんだ千円札八枚、八〇〇〇円を取り出し袋は田へ投げ棄てたことが認められ、このことが架空でないことは、前掲5の(2)の記載に徴しても明らかなところ、更に、裁判所の証人佐藤清(第五分冊一二八一丁以下)同石川栄四郎(第七分冊二一〇五丁以下)を総合すると、同証人等と被害者サダ等が事件前の一月二十六日より二十八日まで当時の岩手県江刺郡江刺町田原(現在江刺市田原)の菅野幸樹方に泊り込んで花札賭博をしたが、一月二十七日にサダが押収してあるビニール袋(証第一七号)に似た、しかももつとすき通る色で大きさの同じ位のビニール袋に千円札を四つにたたんで約一万円位持つており賭博中負けてその中から二千円出したこと、その際サダ自身も一万円位持つてる旨佐藤清に話したこと、サダは、一月二十八日に菅野方から出て帰つたことが認められるので、その翌日である事件当日サダが千円札八枚程度をビニール袋に入れて持つていたこともありえないことではない。弁護人は、右証第一七号のビニール袋は、被告人宅附近から発見されたものとして検察官から当裁判所へ提出されたもので、他に被害者方から押収された貸金証書入れのビニール袋が裁判所へは提出されていないと主張するが、検察官は、前記二名の証人尋問調書や又同証人等の検察官に対する供述調書の記載内容からしても証第一七号のビニール袋を被告人の強取したビニール袋であるとして証拠調の請求をなしているものではないと考えられるし、前記石川証人の尋問調書の記載によつてもサダの一月二十七日に持つていたビニール袋は証第一七号のそれと異なることが認められるのみならず、司法警察員三塚文一郎作成の捜索差押調書(第二分冊四一七丁以下)、証人三塚文一郎の第十回公判廷における供述(第九分冊二八九九丁以下)に前記証第一七号ビニール袋を総合すると、証第一七号ビニール袋は、被害者方六畳間南側押入付近の畳下床板上に借用証書四枚が入つて存在していたものであることが認められ、裁判所へ提出されていないのは却つて被告人が捨てたという、強取したビニール袋なのである。

2 証第七五号の自転車について、

被告人の司法警察員に対する二月十七日付、検察官に対する同月二十八日付供述調書によれば、被害者等を殺害後自分が金治に貸して置いた自転車が被害者方入口土間にあるのに気付き乗つて帰つたというのであり、裁判所の証人高橋文子に対する尋問調書(第六分冊一五四四丁以下)および佐々木栄左ヱ門の検察官に対する同年三月一日付供述調書を総合すれば事件当日の昼頃には前記の場所に自転車があつたことが認められ、前記被告人の自供調書と符合するところである。弁護人は、証第七五号の自転車は、被告人の所有物であつて金治に一時預つていたものであるからこれを持ち帰つたとしても強取したことにはならない旨主張するが、奪取罪における保護法益は、物の占有(所持)にあり、所持を侵害するところに奪取罪の成立を認めるべきものであるから、たとい右自転車が被告人の所有物で、金治に一時預つていたものであつても金治の所持していたものにほかならないから強盗罪の成立の妨げとはならない。

3 村上圭吉名義の名刺について、

弁護人は、被告人が村上圭吉名義の名刺を取つたことは、何等犯罪となるものではない旨主張するが、しかし裁判所の証人村上圭吉に対する尋問調書(第七分冊二〇二一丁以下)によれば、右名刺は、同証人が事件前一月二十三日に金治から三〇〇〇円を借りた際その裏に三〇〇〇円を借用又は受領した旨記載して金治に渡しておいたものであることが認められ借用証の代りをなすものであるから財物であることは明らかであつて、これを取つた行為は強盗罪に該当するものといわなければらない。

(法令の適用)

被告人が佐々木金治、高橋サダを各殺害して財物を強取し、かつ、事実上債務の支払を免れて財産上不法の利益を得た点は、各刑法第二百四十条後段に該当するので、いずれも所定刑中死刑を選択し、以上は、同法第四十五条前段の併合罪であるから第十条第三項を適用し、犯情の重い佐々木金治に対する強盗殺人罪について被告人を死刑に処し、主文第二項掲記の各品物は、いずれも本件の賍物であつて被害者に還付すべき理由が明らかであるから刑事訴訟法第三百四十七条第一項を適用して同項掲記の者らにそれぞれ還付することとし、訴訟費用については、同法第百八十一条第一項本文を適用して主文第三項のとおり被告人に負担させることとする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 榊原寛 西山光盛 阿部市郎右)

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